柏餅の由来と豆知識

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今日は『子供の日』、『端午の節句』ですねぇ。
我が家では、柏餅を食べて、菖蒲湯に入るのが子供の頃からの決まりごとになっていますが、
菖蒲湯なんて、今ではあんまり入らないのかな?

今更ながら、なんで『子供の日』に柏餅なのか、ちょっと気になって調べてみました。
そもそも、柏餅派と粽(ちまき)派があるらしく、関西の方は粽だとか…

平安時代に中国から『端午の節句』が伝来したときに、粽も一緒に伝えられ全国に広がったそうです。
江戸時代に五節句のひとつとなった際、縁起のいい柏餅が江戸の主流となり、伝統を重んじる上方は粽を伝承されました。

柏餅の柏は昔から神聖な木とされていて、柏の木に神が宿っていることから「拍手を打つ」と言う言葉がうまれたそうです。
また、新芽が出ないと古い葉が落ちないので、「子供が生まれるまでは親は死なない」、
つまり「家系が途絶えない」という子孫繁栄の意味が込められているんだとか。

柏餅には葉の表を外向けに巻いているものと、裏を外向けて巻いているものがあります。
この違いは中身の違いを表していて、小豆あんのときは柏の表を外向けに、
味噌あんなら柏の裏を外向けに巻いてあるそうです。

kashiwamochi

さっそく近所で買ってきてみました!
確かに、左の潰しあん(草餅)は表が外で、右の味噌あんは裏が外でした。
どっちも美味しい!

それでは、粽の由来は?

粽(ちまき)には、端午の節句のルーツとなるエピソードがあるそうです。

timakim[1]

今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がおりました。
屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、
陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の思いを詠った「離騒(りそう)」という長編叙事詩は、中国文学の名作となりますが、
国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。

その日が5月5日。屈原の死を悲しんだ国民達は、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、
小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いました。

ところが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。
そこで、龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)の葉っぱで餅米を包み、
邪気を払う五色の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。

こうして粽が誕生し、5月5日に粽を作って災いを除ける風習が端午の節句となりました。
また、粽に結んだ赤・青・黄・白・黒の五色の糸は、子供が無事に育つようにとの魔よけの意味を込め、
鯉のぼりの吹流しの色に反映されています。

なるほどなるほど、赤・青・黄・白・黒の五色の吹流しは、邪気を払う魔除けの意味があったんですね。
「菖蒲」も邪気を避け、魔物を祓う強い香気の薬草とされていて、よもぎと一緒に軒につるしたり、
お湯に入れて「菖蒲湯」に浴することで無病息災を願ったそうです。

「菖蒲」を「尚武〔しょうぶ〕」という言葉にかけて、勇ましい飾りをして男の子の誕生と成長を祝う、
「尚武の節句」でもあったんですね。

出展:
http://kids.goo.ne.jp/parent/seasonevent/kodomonohi/detail_07.html
http://www.child55.com/tango/imi.html

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